Biography 2
1949 — 1958 青春
学制切り替えが実施された1949年になると、八大は久留米より上京して早稲田高等学院へ編入している。東京ではジャズ・ブームの兆しが見え始め、八大は結成されたばかりのダンス・バンド 谷口安彦とプレミア・スウィングや人気学生コンボのレッド・ハット・ボーイズなどに客演するようになる。これについては、そこに早稲田高等学院の先輩であるチャーリー石黒(tp)、渡辺平太(ts)らがいたことや、早稲田大学軽音楽部でクラリネットを吹いていた兄 二大の誘いで参加したものと思われる。このコンボは1946年に慶応大学の笹山美洋(g)を中心として結成され、初期には日大の田辺昭(cl)や法政の久保田二郎(ds)が在籍していた。1948年に田辺、久保田がグラマシー・ファイヴ結成のために脱退したことから、その後はメンバーが随時入れ代わるようになり、高校生でありながらも腕の立つ八大にも声がかかった。しかし、この時期の活動は、まだアルバイトの域を出てはいない。ちなみに1950年に同コンボのピアニストをつとめるのは守安祥太郎(不運な死を遂げた鬼才)である。
また、八大は川口養之助のバンドに参加したこともあるが、彼の息子が後にビッグ・フォアを結成するジョージ川口であった。
同じ頃、八大の噂は早稲田大学のベーシスト渡邊晋の耳へも届いていた。彼は1949年頃から寺田昭三らと米軍キャンプ回りのコンボを始め、1950年4月の品川の“バタフライ・クラブ”への出演を契機に、ファイヴ・ジョーズ&ア・ジェーンを結成している。この年、早稲田大学文学部に進学したばかりの八大は、二大の紹介で渡邊と出会い、同コンボへと加入。実質的なプロとしてのキャリアをスタートさせた。当初は、渡邊晋(b)、宮越巴夫(as)、染谷一孝(ts)、寺田昭三(ds)、中村八大(p)、笠原さよ子(vo)らで活動していたが、5月に安藤八郎(vib)、9月には坪井功(g)が加わっている。
さらに1951年には大幅なメンバー・チェンジが行われ、南広(ds)、宮川協三(g)、井川幸長(ts)、渡辺辰郎(as)が加入、5月にはこのメンバーで新宿の“米軍将校クラブ”への出演を果たしている。そして10月に横浜の“ザンジバル”との契約を機にメンバーを再編して 渡邊晋とシックス・ジョーズ(上手な6人の洒落)と改名、井川の代わりに松本英彦(ts)が加わった。
「セプテンバー・イン・ザ・レイン September In The Rain」をテーマ曲にするシックス・ジョーズは、ジョージ・シアリング・スタイルに傾倒しており、八大がアレンジしたクールな演奏に、松本の豪快なブロウが絡むことによって独自のスタイルを生み出していた。1952年には1月から銀座の高級クラブ“ハト”に出演、そして評論家いソノてルヲの紹介で出演した読売ホールでの“スイング・コンサート”をもってその人気を不動のものにしている。ちなみに同グループは「スイングジャーナル」誌の第2回人気投票においてコンボ部門の2位にランクされており、1953年の第3回人気投票では堂々の1位に輝いた。
また8月にはビクターが「スイング・ジャーナル」誌の企画として 八大の処女作である「ブロークン・ハーテッド・ピジョン」(演奏:渡邊晋とシックス・ジョーズ)を馬渡誠一作曲による「グリーン・ハウス・パーティ」(演奏:スイング・ジャーナル・オールスターズ)とともに吹き込み、SP盤として発売している。企画盤とはいえ、作曲経験の浅い八大の楽曲を採用するあたりに、渡邊晋の慧眼振りが感じられる。のちに渡辺プロダクションを興し、一世を風靡する彼ならではの先見の明であろう。
「ローカル802ブルース」や「ストローリング」などジョージ・シアリングのナンバーをレコードそっくりにやっていたが、アンサンブルとソロの良さにビックリしたことを覚えている。バンド控え室には座る椅子もなく、中村八大がサンダルの片方を差し出して、“これにおすわりなさい”とすすめてくれた。
内田晃一著 「日本のジャズ史」より
その頃、ジョージ川口と小野満は終戦後初の本格的なジャズコンポ、ゲイ・セプテットで活躍していた。同コンボは大阪で活動していた飯山茂雄とゲイ・シックスを母体とするコンボで、大阪の顔役だった飯山が松竹軽音楽団から腕利きのプレイヤーを引き抜く形で結成された。1947年には活動の拠点を東京に移し、麹町の“エスカイヤー・クラブ”の常連コンボとなり、1949年にはジョージ川口が、翌年には小野満が加入し主に丸の内の“バンカーズ・クラブ”や米軍関係のホテルなどを中心に活動、ユニオンのランクでは“スペシャルA"を与えられている。このランク制度はGHQが外務省に実施させたもので、バンドの法外なギャラ請求を防ぐため、ランク別の小切手を受け取り、現金化するシステムだったようだ。
忙しい彼らはゲイ・セプテットの演奏を終えても、夜はジョージ、フランシスコ・キーコ(p)、レイモンド・コンデ(cl)のトリオで日本橋の“マキシム”そして小野とシックス・ジョーズの松本、米軍中尉のデ・コート(p)のトリオで京橋のレストラン“アラスカ“に出演していた。さらにジョージと小野はラジオ用にコンボを結成する話があり、その時にシックス・ジョーズから松本と八大が加わり、その4人のコンポにジョージがビッグ・フォアと命名している。ラジオ東京『イヴニング・コンサート』『スイングホール』などに出演するようになるが、なにしろ二つの人気コンボから特に人気のある4人が特別編成のコンボを組むのだから話題にならないほうがおかしい。
一応、3人は揃ったんだけどピアノがいない。戦後、若手のピアノでジャズ弾けるのはいなかったんですよ。僕が知ってる限りでは(満州から)帰ってきてすぐ目に付いたのが黛敏郎ね。米軍のキャンプに出てるオーケストラでピアノを弾いてた。でも彼はジャズっていうよりもクラシック、上野の芸大行ってたもんでね。譜面はバッチリですけどジャズっぽいものは出来なかったですね。僕も外人なら知ってるんだけど、まぁ、日本人だけでカルテット作ろうと思ってね。そしたら松本英彦が、シックス・ジョーズに早稲田の学生で中村八大ってのが来てるから、これなんかいいんじゃないのって言うもんだから、じゃあ、それ呼ぼうよ、ってことで……。で、来たのが八大。まだまだ坊ちゃんみたいでね。数日後、八大の家に行ったら、狭いとこだけどグランド・ピアノが置いてあって その下に寝てたの、アイツがね(笑)。
ジョージ川口談
4人は「スイングジャーナル」誌の1953年度人気投票では各部門で1位を獲得、「日刊スポーツ」でも同じく各部門で1位に輝いている。そんなビッグ・フォアの人気に目を付けたのが“アラスカ”のオーナーで、のちにラジオ日本の会長となる遠山景久だった。遠山はバックアップを買って出て、ラジオだけでなく本格的に活動することを勧める。すると、メンバーも遠山の意見に賛同し、1952年の暮れに4人は揃って在籍コンボを脱退した。しかし、その企画が土壇場で頓挫し、宙に浮いた4人は途方に暮れる。ジョージと小野は池田操とリズム・キングスへ、松本と八大は元のシックス・ジョーズへと舞い戻り、何事も無かったかのように活動を始めた。ところがある日、松竹のあるプロデューサーから、映画と実演で日本全国の映画館を巡業する話を持ちかけられ、4人は再び結集。いよいよビッグ・フォアの結成が実現した。時に1953年1月のことである。そして5月1日~8日には日本劇場での旗揚げ公演が催され、その際には1日3回のステージをこなしている。
すでに爆発的人気のあったビッグ・フォアは、結成して直ちに連日連夜のコンサートでフル活動することになる。日本劇場、国際劇場、日比谷公会堂や渋谷東宝、新宿松竹などの ショウをこなして、夜は5~6カ所の米軍キャンプを掛け持ちで廻り、深夜まで演奏。明け方に戻ると、昼過ぎからはNHK、文化放送にてラジオ番組の収録、それが終わるとまた劇場へ。そこへさらに地方巡業もこなすという過酷なスケジュールだったが、きっちり4等分されたギャラは1人月10万円を下回ることはなかった。当時の中堅プレイヤーのギャラが平均2万5千円、一般労働者の月給が1万円であったことを考えると、その破天荒な人気ぶりは、およそ察しがつくだろう。いわゆる本格的なジャズ・ブームの始まりである。
ビッグ・フォアは基本的にマネージャーをおかず、ジョージと小野が渉外を受け持ち、八大はアレンジや譜面を全面的に担当、そして松本はプレイ専門という役割分担だったが、ユニフォームのデザインは松本によるものだ。襟の広いワイシャツに赤のネクタイ 肩幅を広くした白の背広のポケットには赤いハンカチ、そして先細りのパンツ(マンボ・ズボン)に白黒のエナメル靴という、いわゆるビッグ・フォア・スタイルは、当時、一世を風靡した。
あの頃、こんなことがあったね、浅草の国際劇場にビッグ・フォアが出ていた。勿論一枚看板でね、そこに北海道の本間興行から使いが来た、北海道巡演10日間の交渉だ。そこでジョージがブッかけたわけだ(笑)、10日間で1人100万円、4人400万円、今でいえばl千5百万円位だな、10日間で。さすがは本間興行、翌日、千円札の束をもって来た。さァ、喜んだり、あわてたりしたのがビッグ・フォアの4人(笑)、「ボーヤ、ボーヤ、戸をしめろ」てなもんで、楽屋でさっそく、4等分よ。
久保田二郎談 「スイングジャーナル」1966年12月号より
多忙を極めたビッグ・フォアだったが、1953年秋、北海道巡業の直前に松本が体調不良を訴え、その代わりを芦田ヤスシが務める。松本は翌年1月に療養を兼ねて岡山に帰省し、そのあとを受けて芦田が加入するが、3月には小野満がフォー・ブラザーズを結成するために脱退、オリジナル・ビッグ・フォアは一旦解散する。やがて八大とジョージはシックス・レモンズに合流してシックス・レモンズ・オールスターズとして活動。メンパーは与田輝雄(ts)、海老原啓一郎(as)、松本文男(tp)、吉葉恒雄(b)、ジョージ川口(ds)、中村八大(p)という夢の競演で全国を廻った。フォー・プラザーズ結成の経緯は様々だが、白木秀雄の実兄が小野に頼んだというのが事の真相のようだ。
弟思いの人でね、「小野さんとジョージが組んでると、ウチの秀坊が日本一になれない。ぜひ秀坊を使ってバンドを作ってくれ」といってね。そんなこともあったので、芦田のヤッちゃんと、秀坊と、ピアノに高見彰一君というのを呼んで、フォー・ブラザーズというのをつくったわけです。ジョージと話し合って、じゃあしょうがねえやということで別れた。それが昭和29年ですから、ビッグ・フォアとしてやってたのは1年ぐらいですかね。
小野満談 沢たまき「ハッピーJAZZトーク」より
1954年12月23日から文化放送にて『トリス・ジャズ・ゲーム(寿屋提供)」が始まった。回復した松本と新メンバーの上田剛(b)を加え、ビッグ・フォアはレギュラーとして復活する。この番組はビッグ・フォアの生演奏とゲスト歌手、そして曲名当てクイズが売り物で、ロイ・ジェームスの司会が大いに受けていた。その台本を書いていたのが、早稲田の学生だった永六輔だが、当時はプレイヤーと作家という関係だったため、6・8コンビとなるのは、まだ少し先のことである。
皆様、今晩は、司会のロイ・ジェームスです。洋酒の寿屋が毎週この時間、全国のジャズ・ファンにお送りする、ジャズとクイズの『トリス・ジャズ・ゲーム』。今宵は、東京有楽町のヴィデオホールに関東の音楽ファンをお招きして、三十分、新編成のジャズ・アット・ザ・トリスの演奏をききながら、クイズを楽しんでもらおうという趣向でございます。あなたのお好きな曲を、その場で即興演奏、もし出来なければ出題なさった方に、トリス・ウイスキー、赤玉ポートワインがお好きな方なら赤玉ポートワインを、JATTからお詫びのしるしに、皆様に御進呈。まず皆様のリクエストをうけてたつ舞台のビッグ・フォアのメンバーを御紹介いたしましょう…
『トリス・ジャズ・ゲーム』台本より
ところが、松本が再びダウンし、オリジナル・ビッグ・フォアは一旦、活動を停止。残った 3人は宮沢昭(ts)を迎えてビッグ・フォアとしての活動を継続するものの、1957年2月には活動を休止している。
しかし、ビッグ・フォアの灯が消えることはなく、ジョージと松本、そして渡辺貞夫(as)、八木正生(p)、木村新弥(b)というメンバーでジョージ川口ビッグ・フォア十1を結成、その後はジョージを中心にメンバーが入れ代わり、新進プレイヤーの登竜門となるのは周知の通り。ここから渋谷毅、山下洋輔、佐藤允彦、鈴木宏昌など次世代のプレイヤーたちが育っていくことになる。
一方、その間の1955年に八大は、今まで未払いだった授業料を6年分払って大学を中退している。授業料を払わなかったのは学校へ行く時間がなかったからで、同じく未払いの永六輔と並んで掲示板に名前が出ることもあったという。
文学部一階の、学生課入口に向って左の壁に、のべつ、「中村八大君、×月×日までに授業料を払わないと退学になります」という貼紙が出ていた。あまりしつこく出るので、私は、これを新手の宣伝ではないかと考えたほどである。
小林信彦著 「日本の喜劇人」より
1958年になると八大は自己のトリオ、中村八大モダン・トリオを結成。メンバーは気心の知れた坪井功(g)、永井啓二(b)で、他のパートが必要な場合には客演を頼んでいる。銀座の“クラブ・サンボア”を拠点として活動を開始し、やがて本格的なピアノトリオとして世間の注目を集めた。6月5日にサンケイ・ホールにて開かれたリサイタル『中村八大リサイタル』には、ジョージや平岡精二など多数の友人プレイヤーが参加するとともに、歌手では雪村いづみやダーク・ダックス、さらには石丸寛指揮による東響ポップス・オーケストラの大編成を迎えるといった絢爛豪華な顔触れで行われた。
ところでジャズの歴史を紐解く限り、洋の東西を問わず麻薬との関係を避けて通ることはできない。薬物を使用することにより新たなインスピレーションを獲得できるという幻想から我が国でも多くのミュージシャンが薬物の罠に陥っているが、八大もその例外でいることはできなかった。
すっきりしてる、と自分では思い込んでいるわけなんだけど、結局最後には芸術も何もなくて、麻薬がきれたときの苦しみ、それからいかにのがれるか、ということの反復だけになってしまう。きれたときの苦しみ。これはたいへんな恐怖ですからね。その恐怖があるうちはやめられないわけですよ。
「毎日グラフ」1962年11月25日号より
やがて八大は薬物との決別を誓う。外へ逃げ出すことのないように見張りを置き、2週間に亘り自室に籠り一日に何度も入浴を繰り返すことによって 遂には過酷な禁断症状との戦いに打ち克つ。音楽への畏怖が引き起こした過ちを、また自らの音楽への情熱によって精算したのである。
いつしか熱狂的なジャズ・ブームの嵐は鎮まり、巷ではロカビリーの波が押し寄せていた。