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Biography 1

1931 — 1948 誕生

中村八大は1931年1月20日中国の青島(チンタオ)にて出生した。青島は第一次世界大戦後日本が統括していたが、元はドイツの植民地だったためヨーロッパ風の建築物が軒並ぶアカシア並木が美しい街だった。小学校の校長として勤務していた八大の父は、教育熱心な上にモダンな人物だったようで、生家には既にドイツ製のピアノや手動型蓄音機、SP盤などが揃っていた。4年上の姉 和子がピアノを習っていたことから、その横に椅子を並べて見よう見真似で鍵盤を弾くことも多く、広い玄関を二輪車で走り回っていたかと思えば、応接間でピアノをかき鳴らすなどして遊んでいたという。

小学校3年生の頃、ラジオから流れてきた音楽に耳を奪われる。瞬時にメロディを憶え、その足でレコード店へ向かったところ、それはドヴォルザークの「新世界交響楽 第4楽章」であることが判明、生まれて初めて自分の意志でレコードを手に入れた。両親は息子の才能を伸ばしてやろうと、小学校3年生の秋頃(1940年)に、青島女学校の音楽教師(品田先生)をピアノ講師として迎える。ところが僅か3ヶ月でバイエルを終了し、その神童ぶりが周囲を驚かせた。

中村八大

両親は彼の可能性をさらに伸ばすために日本への逆留学を考え、早稲田鶴巻町で縫い物工場を営んでいる知人宅へ八大を預けることにする。かくして小学校4年生の夏休みに、たった一人で2泊3日の船旅を経て上京、背負ったランドセルには知人宅の住所が大きく書かれていた。

第2次世界大戦直前のこの頃、八大は早稲田国民学校へ通いながら、上野音楽学校(現・東京芸術大学)付属児童学園にも入学し、週に2回、水曜と土曜の午後に行われていた音楽の授業にも参加している。ちなみに国民学校の上級生には、のちにピアニストになる秋満義孝がおり、学芸会では二人ともピアノを弾いていた。また、この頃の八大が少年合唱団とともに古川ロッパの映画『音楽大進軍』に出演したという記録も残っている。

担任のピアノの先生は、未婚の上品なお嬢さんで、ピアノのレッスンは楽しかった。しかし、時々かいま見る本科生のピアノレッスンは、それこそ死に物狂いのハード・トレーニングで、習っている娘さんの目はつり上がり、すさまじい形相でピアノを叩き鳴らしていた。一秒間に何個音が出せるかを競っているようでもあり、オリンピックにでも出場するのではないかとさえ思えた。そこには音楽性のひとかけらも感じられなかった。

やがて児童学園とは別に、高田信一先生のもとでピアノと作曲の個人レッスンを受けるようになり、そこではシンフォニーのレコードを聴き、スコア(楽譜)を見ながらおしゃべりをするといった和やかな時間を過ごしている。

そんな折、八大は宝塚歌劇団の公演を目のあたりにし、オーケストラ・ボックスから流れる華麗な歌曲に心を奪われる。そして、劇中で繰り広げられるメロディをその場で暗記しては、帰宅後にはそれらを繰り返しなぞるのが習慣となった。その後も劇場には保護者同伴のもと、月に1、2度は足を運ぶようになるのだが、それだけでは飽き足らず、学校をサボり一人で劇場界隈へ通うことになる。

当時の有楽町はエノケン一座や古川ロッパ一座、そのほか様々な劇団が定期公演をしており、それらを観たくてたまらなくなった八大は、叔母の貯金箱からこっそり小銭を抜き出し、学校へ行くと称しては有楽町、浅草、新宿などの劇場へと足を運んだ。しかし、悪事はすぐに見破られたようだ。同級生には後に演芸界入りを果たす海老一染之助・染太郎兄弟がおり、特に染太郎とは仲が良かったという。八大と趣味の合う彼は鶴巻町の親戚宅へよく遊びに行っている。

机の上に、ボール紙でつくった宝塚の模型舞台があって、レビューの話をしながら踊るんですから……よくおぼえていますよ。夏休みが終わって学校に行ったら、もう青島に帰っていたのかなァ。僕に佐藤紅緑の本をくれましたねェ。

仲良くしましたよ。二人とも出歯だったもんで……。

海老一染太郎 永六輔「六 八 九の九」より

1943年、小学校6年生になった八大は、戦時中にもかかわらず 学校で将来の志望コースに“作曲家”と書いている。同世代の少年はこぞって“軍人”と書いていた時代だけに、教師には叱られ、ほかの生徒からは非国民と呼ばれることすらあった。
その年の夏休み、八大は青島へ帰ることになる。

中村八大

青島に戻るとそこには運命的な出会いが待っていた。それはユダヤ系ドイツ人の音楽教師、ダ・カール・ヘルスとの出会いである。ウィーン音楽院出身のヘルスは名門の家系だが、ユダヤ系であるがために国を追われ、青島に亡命していたのだった。彼は自宅に生徒を集めて個人レッスンを行っており、やがて八大も彼のもとへと通い始める。言葉はまったく通じなかったが、音楽を愛する心が伝わる教え方や演奏に接して、八大はあらためてクラシック音楽の素晴らしさ、殊に旋律の美しさに心惹かれている。

ある日、ヘルスが日本の将校倶楽部でピアノ演奏をすることになり、八大は姉 和子とともに同席を許される。そこでヘルスが演奏したのはベートーヴェンでもショパンでもなく、「荒城の月」と「さくらさくら」。しかも、彼はそこに原曲の本質を損なうことのない流麗な編曲を施し、即興(アドリブ)的な演奏で聴くものを陶酔の世界へと誘ったのである。あまりに気高く美しい演奏に、その場に居合わせたすべての人々は心から感動し、音楽の美を心ゆくまで味わった。

中村八大

帰り道、和子は八大の手を引きながら、その手が興奮のために強く握られていることに気付く。そこに込められていたのは、ヘルスに対する憧憬と音楽という表現活動に寄せる深い畏敬の念であった。

いまでこそ即興演奏の重要性が云々されているが、当時のクラシックの大家があれほどの即興演奏をなさったということ、この出来事を目前にして我々の感動は異常に大きかった。私は、生涯に何度も流さない涙をとめどもなく流し、このときに初めて、生涯をかけて大音楽家になろう、と心に誓ったことを覚えている。

1944年の秋、一家は日本に引き揚げることになった。その際にヘルスは、新交響楽団を指揮していたヨーゼフ・ローゼンストック宛の紹介状を書き、八大に持たせている。新交響楽団とは大正時代から存在する交響楽団の名門で、後のNHK交響楽団である。ローゼンストックは1936年9月から楽団を指揮しており、ヘルスとはウィーン音楽院時代からの親友で、お互い中国、日本と離れていながらも親交は厚かったようだ。

ちなみにその頃の新交響楽団のコンサートマスターはヴァイオリニストの黒柳守綱(黒柳徹子の実父)である。

引き揚げ先は祖母の住む福岡県久留米市津福本町で、そこへ親子総勢6名が同居することになった。久留米宅はわらぶき屋根の典型的な日本家屋で、八大は環境の変化に戸惑いながらも、子供ゆえの適応力の早さですぐに順応している。

津福本町での農村的な生活の中で特に楽しかったのは、家から歩いて数分の角にある共同ふろ屋さんだ。いわゆる町の銭湯とは違い、数十軒の農家で共同経営しているタダ同然のふろ屋が夕方5時に開く。その小さなふろ屋の最初の時間は、老人と子供たちの格好の遊び場だった。

1945年8月15日、中学明善校(現・明善高校)で中2の夏休みを迎えた八大は、久留米宅にあった音の不鮮明なラジオで玉音放送を聴いている。終戦と同時に生活は厳しくなる一方だったが、今までひっそりと弾いていたピアノを毎日心おきなく練習できるようになり、八大は存分にその音色を楽しんだ。間もなくアメリカ文化が解禁され、FEN放送からはジャズやポピュラー音楽が溢れ出し、八大は鉱石ラジオを自作してそれらを貪り聴くようになる。電力不足で停電になることもしばしばだったが、そんな時こそ電気のいらない鉱石ラジオは重宝した。また、暗闇のなか、鍵盤の音だけを頼りに演奏することも多く、これは後の即興演奏の際に大いに役立っていく。やがて久留米にもアメリカの進駐軍が駐屯するようになり、八大も他の子供と同じように兵隊からガムやチョコレートを貰っている。しかし、夜になると仲間を引き連れて駐屯地横の土塀によじ登り、そこから漏れてくるサキソフォーンのブルースに聴き入っていた。

停電-鉱石ラジオ-米軍クラブのサキソフォーン-といった不思議な音楽的環境の中から、私自身の音楽は、音楽への幻想は雲を越え、空を切って果てしなくどこまでもどこまでも伸びてゆくのだった。

この頃には、コメディやミュージカルなど様々なタイプのアメリカ映画が次々と公開され るようになる。すると八大は久留米近隣のあらゆる映画館へと足を運び、たちまちその世界に夢中になった。とりわけ映画『アメリカ交響楽Rhapsody In Blue』には感銘を受け そのテーマ曲である「ラプソディ・イン・ブルー」とその作曲者ジョージ・ガーシュウィンからは音楽家として多大なる栄養を受けている。

ある日のこと。八大が身を寄せていた親戚宅でピアノを弾いていると、垣根越しに興味深い様子でこちらを覗く少年の姿があることに気付く。彼は同じ中学明善校に通う先輩で、のちに久留米音協合唱団を指揮することになる本間四郎である、学生時代の彼は学内でも有名なバンカラだったが、その印象とは裏腹に音楽を愛する繊細な心を持った少年でもあった。彼は八大の紡ぎ出す優雅な調べに素直に感動し、その才能に惹かれている。この日以来、二人の心は“音楽”という共通項で結ばれ、その関係は終生変わることのない友情へと発展していった。

八大は本間の誘いで同校の合唱団に参加。やがて他校の音楽教師にも認められ、合唱団は女学生との大混声合唱団へと規模を広げていくことになる。この合唱団の活動は好評で、柳川、大牟田、三池など他校へも遠征し、ヴァイオリン独奏、ソプラノ独唱など様々なプログラムを用意して久留米周辺を廻っている。そんななか、たくさんの音楽仲間ができたようで、ピアノの欠員が出た際には久留米にあったブリヂストンの軽音楽部などへも応援に駆け つけた。

1948年ともなると久留米での生活にもすっかり慣れ、学園生活を謳歌している。その年の秋には3日間にも及ぶ大文化祭が行われているが、これについては幸運にもそのプログラムが現存するため、そこから当日の催し物を紹介しておきたい。内容に関しては、教師はいっさい口を挟まず、全て生徒たちによって行われた。第1日目は“クラシック・コンサート”。八大はベートーヴェンのソナタ「熱情」をピアノ演奏し、合唱曲では「ハレルヤ」「流浪民」を披露している。第2日目は“演劇”で、八大は『ども又の死』などが演じられるステージの陰にピアノを置き、即興で伴奏を付けている。そして第3日目が“のど自慢大会”。この日は一番盛り上がったようで、すべての出場者の伴奏を引き受けた。さらに伴奏だけでなく、笠置シズ子の「セコハン娘」を「ラクダイ坊主」という替え歌にして歌っている。若かりし日の珍エピソードといえるだろう。

そんなある日、作曲家の利根一郎が九州の炭鉱慰問として小畑実ほか人気歌手を率いてやって来た。その楽団には兄の二大がアルバイトで演奏していたため、八大は遊びがてら慰問団に参加して九州の炭鉱街を廻っている。座敷の広間などでは「星の流れに」を始めとする当時の流行歌を楽しみながら演奏したそうだ。

また、これは余談であるが、父親と九州を訪れた青年が、たまたま八大の弾く「ラプソディー・イン・ブルー」を聴いて、その表現力に圧倒され舌を巻いたという。それだけならさして珍しいことでもないが、その青年こそがのちに作曲家になり『ひょっこりひょうたん島』などで頭角を現す宇野誠一郎だというのだから面白い。

当時の炭鉱街は景気がよく、歌い手と観客の交流が見事で、とても楽しい毎日だったのを思い出す。音楽とは一言で言っても、外来クラシックから純日本調民謡まで数限りなくある。その音楽のどれもが、決して観客と遊離すべきものではないんだなと、子供心ながら深く身に感じたのである。