Biography 4
1967 — 1992 伝承
1967年は日本万国博覧会(1970年)のテーマ曲を担当することになり、「世界の国からこんにちは」を発表。この曲は三波春夫を始めとする多くの歌手が競作し、各社から一斉にシングル盤がリリースされた。そして、4月5日からは末盛憲彦の演出によるNHKテレビ『音楽の花ひらく』(水曜21:40*50分)がスタート。司会の三橋達也と佐良直美のほか、レギュラーとして山本直純、ロビー和田率いるグループ、レッツ・ゴーらが出演するこの番組は、演奏に八大のクインテットや管弦楽団を迎え、さらにコーラスに東京混声合唱団を配すという盛大な編成が話題となった。音楽をテーマに毎回趣向を凝らし、ある回では演歌歌手にスタンダードナンバーを歌わせるという、楽しくも実験的な試みが行われている。しかし、良質な番組であったにも関わらず12月27日には終了してしまう。
この年には都内馬込に新居が完成。部屋全体に陽があたるようにと設計された多角形の構造は、訪れる者を驚かせた。
1968年12月19日、三女鮎子誕生。
1969年初頭から八大はNHKテレビ『ステージ101』の準備に取り掛かる。これは『夢であいましょう』で我が国におけるショウ番組の礎を築いたNHKのディレクター末盛憲彦が、かねてより構想を暖めていたもので、欧米のミュージカル・ステージやショウ番組などの要素を、本格的に日本のテレビ界に導入させるべく企画された番組である。出演メンバーには、歌って踊れ、なお且つ音楽への情熱を併せ持った若者が選ばれ、そこにはシング・アウトやザ・バロンなどこれまでも独自の音楽活動を行ってきたグループも含まれていた。
集められたメンバーにより、6月からレッスンが開始され、ヴォーカル指導に和田昭治、振付を中川久美とチャチャ遠藤、そして音楽監督を八大が務めた。歌や踊り以外にも、プロとしてのマナーを厳しく教えるあたりに、末盛の徹底したこだわりが感じられる。その間の 7月25日にはシング・アウトが、ヤマハ主催の『第1回合歓ポピュラー・フェスティバル』において「涙をこえて」を熱唱し、見事グランプリに輝いた。11月3 日には『ステージ101』のパイロット版が放送され、そこには三波春夫、渥美清、植木等、石井好子という八大ゆかりの面々がゲスト出演、本放送は1970年1月10日(水曜20:00*60分)からスタートしている。なお、この番組からも八大の書き下ろしによる作品が続々とレコード化された。
番組は1974年3月31日に終了するが、多くの歌手やタレント、そしてミュージシャンを輩出しており、いまもなお根強いファンが多い。
1970年10月19日には文京公会堂にて『中村八大作品リサイタル』を開催。全体の構成は三部形式となり、そこでは八大にとって念願の「交響曲へ長調」と「A.D.2000年への序曲」が発表され、演奏は手塚幸紀指揮による日本フィルハーモニー交響楽団が務めている。第3部「水の歌(全12章)」(谷川俊太郎・構成)では、出演者全員が歌って踊る、まさに音の一大絵巻を繰り広げた。雪村いづみの伸びやかな歌唱と、それを引き立てる華麗な演奏、そしてこれが初舞台となるヤング101のメンバー……。この若さ溢れる会場の模様は11月1日午後8時30分より文化放送にてオンエアされている。ほかに観世栄夫、オーケストラ101(八大のクインテットに数名が加わったもの)らが出演、演出は永六輔が手掛けた。
この年には雪村いづみの「涙」が、『第2回合歓ポピュラー・フェスティバル』のグランプリに輝き、『第1回東京国際歌謡音楽祭(後の世界歌謡祭)』でも歌唱グランプリを受賞している。
この曲は私の大好きな曲。そしてとっても“大きな曲”。この曲を歌い終えると、歌手として心の底から“歌ったんだ”という充足感に満たされるの。今でも、私をずっと支え続けてきてくれたファンの方のリクエストに応えてステージで歌うのよ。
雪村いづみ談
翌年、『夢であいましょう』の頃より付き合いのあるNHKテレビのディレクター下川純弘から、当時彼が担当していた番組、NHK『昼のプレゼント』(月曜~金曜12:20*25分)の企画を持ち掛けられる。それは日替わりで作曲家を招き、その人のカラーで番組を構成するというもので、八大には出演のほか、全体の音楽監督が一任される。“作曲家登場”と銘打たれたこのシリーズは、月曜の八大を始め、浜口庫之助(火曜)、いずみたく(水曜)、鈴木邦彦(木曜)、宮川泰(金曜)という錚々たる顔ぶれで収緑され、1971年2月8日から12日の5日間にわたって放送された。
この時期の活動で異彩を放っているのが、『第3回合歓ポピュラーフェスティバル』において八大自らが歌った「太陽と土と水を」である。少年少女合唱団を従えて披露されたこの曲は、多くの観客を驚かせたと同時に特別賞を受賞している。
三拍子四拍子とか、五線紙のオタマジャクシとか、平均律といった音の高さの決まりは、ここ数百年の間に人間が便宜上使い上げた記号にしかすぎない。私たち人間には小節で割り切れない情感的音の長さもあったろうし、オタマジャクシでは決めつけられない音の高低もあるだろう。
一度これらの音楽の基本的約束を全部脱ぎすてて、心からみんなが和唱できるような歌づくりに励んでみたいと近ごろ感じている。
この頃より八大の身体に病魔が忍び寄る。不規則な生活による過労などから糖尿病の症状が顕著になり、検診の末に入院。以後、この病気との闘いは亡くなるまで続き、何度も入退院を繰り返していくことになる。
仕事を減らしたりして気を付けましたが、あるとき一ヶ月間地球を一まわりする旅に一人で出ちゃったのです。まわりに外国語が氾濫している中で、旅行中に一人で、他人としゃべらないものですから、いろいろ思いつめてしまうのですね。世界中が間違っていると(笑)。うつ状態ですね。それで日本へ帰ってきたら仕事を全部やめちゃった。子供四人と 妻の平凡な家庭ですけど、都会にいれば人間おかしくなるから田舎へ行こうと突発的に言い出したり、まあ一種の気がおかしくなった状態になったのです。半年くらいしてだいぶ冷静になりましたが、ああ、これは糖尿が原因じゃないだろうかと思うようになりました。
「暮らしと健康」1983年3月号より
病と闘いながらも、八大は常にピアニストであり続けた。1974年1月28日には芝郵便貯金ホールで催された『ブロー・ブロー・ビッグフォア』に出演し、往年のラジオ番組『トリス・ジャズ・ゲーム』を再現させている。ロイ・ジェームスの司会によりテーマ曲「ラヴァー」で幕を開けるという構成が当時のファンを感涙させ、ジョージ、松本、上田、八大の4人の演奏に観客は熱狂した。
また、クインテットの公演も続けられており、この間にドラムはジミー竹内、五十嵐武要、ギターが伊崎もりひさ、菅谷幸三、潮先郁男へと交代し、松本も随時ゲストとして参加している。
この頃、八大は中年御三家(永六輔、野坂昭如、小沢昭一)の音楽監督を務め、その後本格的に歌手活動を開始した永六輔の公演にも同行するようになる。この公演は全国各地を廻るもので、時には坂本九も応援に駆けつけた。なお1974年8月に発売されたアルバム「六輔その世界」はこの延長線上に位置する作品である。
1976年4月には、團伊玖磨、武満徹、伊藤京子らと中国に招かれ、二週間の滞在期間に、中国各地の演奏会を見て廻った。そこでは中国古来の伝統的な民族楽器である胡弓が、今だに改良され続けていることに感心し、さらにはオーケストラのレベルの高さに感嘆している。また、観客の拍手のない者は、どんなに技術があっても仕事は与えられない、という厳しい現実に立ち合い、これについては次のように書き残している。
音楽家であれ、何の職業でも、必ず他の人間、即ちすべての人民のために役立ってこその職業である。拍手の一つももらえないような、即ち、人の心に何の感動も与えないような音楽家は、音楽家の資格がないのだから、その日をもって音楽家をやめるべきであって、直ちに、人の役に立つ、他の職業に転向せよということなのです。
1977年9月にはオリジナル・ビッグ・フォアの公演が渋谷公会堂にて催され、ジョージ、松本、八大、そして小野満の4人が久々に勢揃いした。熱気のなかでスイングしてみせる4人を見て、当時を知らぬ若い世代も、彼らに惜しみない拍手を送った。なお、この模様はアルバム『オリジナル・ビッグ・フォー』としてフォノグラムから11月にリリースされている。
この年クインテットに復帰した長芝は当時を次のように振り返った。
クインテットを辞めた理由は、当時、スタジオの仕事が忙しくなってきたからなんですよね。私も二足のわらじを履けない性分なので、早速八大さんに相談したんですが、すると、「じゃあ、辞めてよろしい」ということで、すぐに……。その後、八大さんとは7年くらいブランクがありました。その間にスタジオで稼いで、家買って生活も安定させて。で、ある時、八大さんの劇伴かなにかで、久しぶりにお会いしたんです、スタジオで。おかげさまで生活も落ち着いて って話をすると、「じゃあ、戻っておいでよ」と一言。いちいち細かい事を語らない方でしたね。ですからブランクはありますが26~7年間ずっと、亡くなるまでご一緒させてもらったんです。
長芝正司談
1979年には、6・8コンビに坂本九を加えた黄金のトリオによるアルバムの制作が開始される。
3人揃って新作に取り組むのは実に16年ぶりのことで、彼らはこの新作に全力を傾けた。
録音に費やされた3月2日から4月19日までの期間中、スタジオでの作業は常に深夜にスタートし、そのまま明け方まで続けられている。これは当時、坂本がフジテレビの『スター千一夜』の司会を務めていたことに起因し、その生放送終了と同時にスタジオに駆けつけすぐさま録音に臨むという体制が敷かれたためだ。アルバムには『689』のタイトルが付けられ、当然のことながら全作詩を永、全作編曲を八大が手掛けている。なかにセルフカヴァー曲「一人ぼっちの二人」が含まれているが、これについては八大の指示により、ヴォーカル、演奏ともに一発録りで行われた。
本作は坂本にとって初の全曲オリジナルによるアルバムで、これまでに作られたアルバムは既発シングルを集めたものや、いわゆる企画盤の類であった。
さて、アルバム完成後も3人揃っての活動は続く。5月からプロモーションの一環としてプレス向けのライブ『689倶楽部』が発足し、同種のライブは以後、会場を変え、数度にわたって開催されている。そして6月20日のアルバム発売をはさみ、9月9日には『689再会コンサート』(中野サンプラザ)が行われた。なお、このコンサートは札幌、金沢、大阪などでも行われている。一方で病気と闘いは続いており、八大は熊本の天草病院に長期入院。思うように改善されぬ症状にあせりを感じながらも、次第に糖尿病がもたらす合併症の恐ろしさを知り、本格的に治療に専念することを決意した。
入院したときに、重傷の方がいまして、食事のときに、目の見えないその人がこうやって(手を目の間近に近づけて)目のあたりに近づけて必死に見ようとしているんですね。あのような光景は効きますね。やっぱり。そんなふうには絶対なりたくないという治療意欲がようやくわいてきたのです。
「暮らしと健康」1983年3月号より
その頃、転勤でNHK大阪にいた下川ディレクターは、病魔と闘いながらも公演を続ける八大の世話係となって、八大が仕事で関西方面に訪れた際には出来る限り同行したと語っている。
僕の顔みると飲もうっていうんですよ。もちろん断わるんですが、泊まるホテルの側にピアノ・バーがあるから、付いてこいっていうんですよね。そこはお客さんが生歌を歌える店で、そこへ八大さんが来たもんだから、みんながピアノを弾いて下さい、ってことになりましてね。それで、お客さんの伴奏を何曲か弾いてて、「下ちゃんもなんか歌わない?」っていうことで(笑)。僕は相当キーが低いんですけど、それにサッと合わせてくれて。もう一つは“間”がね、ちょっとずらしたり伸ばしたりがあるじゃないですか。それでも、ピタッと付いてくるんですよ。やっぱり、この人は只者じゃないと、僕は僕なりに思いましたね。
下川純弘談
1984年にはアメリカで催された、『第1回ロサンゼルス世界音楽祭』にゲストとして迎えられ、「Sukiyaki」の作曲者としてスタンディング・オベーションを受ける。渋谷ジァン・ジァンでの定期公演『永六輔+中村八大ライブ』も好評で、ファンを間近に、二人は楽しい舞台を繰り広げた。なおその模様はライブアルバムとしてリリースされている。
1985年8月7日の発売記念ライブでは、客席に坂本九が姿を見せており、公演終了後、八大は坂本と二人きりで酒を酌み交わしている。
その5日後、坂本が乗った日本航空機が墜落した。
文明の発達を、私は(悲しいなあ)と思っていた。九ちゃんは、もう、いないのに 九ちゃんの元気な声は、泣いている私たちの耳のまわりを、おどっている。(中略)弔問客の中で、一番、悲しそうだったのは、中村八大さんだった。私は、ず一っと八っちゃんの手を握っていた。
黒柳徹子著 「マイ・フレンズ」より
八大は病を抱えながらも赤坂の“ドラム”や池袋の“ロイヤルドラム”といったクラブにレギュラー出演していた。さらに毎月第一月曜日の午後10時から開かれる『10時劇場』にも 継続的に出演、そこにはトニー谷やマルセ太郎など毎回多彩なゲストが出演している。また、友人の香坂信之が演出する読売テレビ『火曜サスペンス劇場』など、依頼された仕事も着実に形にしていった。
1986年暮れ、念願だったベーゼンドルファー社のグランドピアノを購入。
八大さんは雲の上の存在でしたけれど、僕ら(クインテットのメンバー)はピアニストという風に……。もちろん大作曲家ではあるんですけど、それ以上に大ピアニストでしたね。僕は晩年のほうになって、ますます八大さんはピアニストだなあって、思うようになりましたね。ほんとに歩くのが困難な状態になってても、ピアノの前に座るとシャキッとするんですよ。やっぱり並みの人ではないですよね。
長芝正司談
カワイのコンテストがあるんだけど、その全国大会の審査員長を八大さんがやってて、僕も審査員で……。夏やるんだ、名古屋で、暑いのに。それで八大さん、もう汗びっしょりなの。こりゃマズいなと思ってね。僕が着替えで持ってきてたシャツを、着て下さいよって渡したら、「いいのに、いいのに」といいながらも、着てくれたんだよね。それで、その日ずっと着てるもんだから、返してもらわずに、そのまま別れて……。そして、何ヶ月か経ったら、テレホンカードが送られてきたの。“元気になりました”っていうメッセージの入ったね。すると、そこに写ってる八大さんが、僕か貸したシャツ着てるの(笑)。かわいいんだ(笑)。あれ、もらったつもりでいるんだよ(笑)。
鈴木邦彦談
テレホンカードの言葉通り体調を回復した八大は、1987年にテアトル・エコー『歌うならラブソング』、松竹歌劇団の『夏のおどり』などの音楽監督や、ビッグ・フォア、八大カルテットの公演活動を再開し、永との活動と並行して ジェームス三木や松島トモ子とのジョイントコンサートなども精力的に行っている。またこの年は、カルテットのシンガポール公演、音楽講師としての中国 天津、北京への船旅、オーストラリアヘの招待旅行など外遊の多い年となる。
1988年は“88年八大の年”と銘打ち、前年にも増して精力的な公演活動を展開。シンガポールでのアンコール公演や、18回に及ぶ永六輔との『6+8コンサート』も本格的に再開し、国内演奏公演のみならずジャカルタ、クアラルンプール、サンフランシスコなどでも行われている。八大は世界中どこへ行っても必ずその国にある日本人学校を訪れ、青島の日本人学校出身の経験から、海外でしか出来得ない体験や、日本へ戻ってもその地で生活したことを誇りに思うことの尊さなどを分かりやすく子供達に説いた。
1989年の『6+ 8コンサート』は全国26ヶ所のほかグァム島でも行われている。この頃から6+8やビッグ・フォアでの公演以外にも、単身での講演会を引き受けるようになり、音楽教育者向けの講演では、自身が幼い頃に感じた音楽教育に対する疑問や自らの意見を、多くの若い音楽教育者に熱く語っている。
1990年は故郷久留米に何度も足を運んでいる。大親友、本間四郎率いる久留米音協合唱団との演奏会はいうに及ばず、ブリジストン吹奏楽部を擁したレコーディングなどを行う。またこの年、国内での公演の合間にフランス、ベルギーを旅し、久し振りに生のヨーロッパ音楽に接したり、台湾では大好きな中華料理に舌鼓を打っている。
1991年に入ると病院にいる時間が増えてくるようになる。その頃、香川県と徳島県の共催による第48回東四国国体(1993年夏・秋)の香川県テーマソングを依頼され、八大は作詞家の山上路夫と現地を訪れている。真っ青な顔をしながらも取材をする八大を見て 山上はその精神力にただただ圧倒される。そのチェリッシュが歌う「青い国」は同年春に完成した。
11月3日の『第1回古関裕而記念音楽祭』に、山上と、この年2作目となる「ぼく達はこの星で出会った」(歌唱 松崎しげる&福島市立瀬上小学校合唱団)を出品し、見事、金賞を受賞した。この曲は、同音楽祭に参加した他の作曲家にあらためて八大メロディの素晴らしさを絶賛させる程の意欲作であった。
この年、長女の里子が結婚。八大は大勢の招待客の前で「ウェディング・ドレス」を弾いた。満面の笑みが印象的であった。
1992年1月9日から11日の3日間シアターコクーンで中村八大音楽家生活50周年 永六輔放送生活40周年『あの歌この歌・夢であいましょう』が行われた。このコンサートは全曲NHK『夢であいましょう』の“今月のうた”で構成され、永六輔、遠藤泰子の司会で、『夢であいましょう』レギュラーの中島弘子、坂本スミ子、田辺靖雄、九重佑三子と元ヤング101の田中星児、いずみ朱子らが出演し、八大カルテットが全曲を演奏するという、まさに音楽生活50 周年を飾るにふさわしい内容となる。この模様は後日NHKで放送されたが、収録はNHKの粋な計らいで、かつて、『夢であいましょう』を撮っていたカメラマンが担当している。
しかし、公演後の2月には再度入院。
それでも病室には、永との間で構想を練っていたミュージカル(『ヤッパン・マルス』)や、励ましの手紙と共に依頼されていた黒柳徹子への曲提供を実現させるために、携帯用のキーボードと五線紙を持ち込んだ。
2月11日、永六輔、松本英彦、松島トモ子らと、八大の名を冠したコンサート『中村八大と素敵な仲間たち』が大宮ソニックシティにて行われる。その日、八大は入院中の都内の病院から会場へ向かった。
その体はとても演奏出来る状態では無いにも関わらず、彼は渾身の力を振り絞り、ピアノの前で最後までその任を全うしている。
八大にとって生涯最後のステージとなった。
「上を向いて歩こう」「黒い花びら」「こんにちは赤ちゃん」などのヒット曲で知られる作曲家、中村八大さんが十日午後七時四分、心不全のため、東京都内新宿区の東京女子医大病院で亡くなった。六十一歳だった。
「朝日新聞」1992年6月11日号より
中村八大とは私にとって一番尊敬できるピアニストです。世界の一財産なんだから、政府は文化勲章を授けて欲しい。それだけ素晴らしいピアニスト…、また作曲家でありました。
ジョージ川口談
6月13日の告別式には、1000人以上の弔問客が訪れている。弔辞は一切省かれ、会場では本人のピアノ演奏曲が静かに流された。